バイエルンの奥座敷        (ロタッハ・エガン)

 

湖に沿った散歩道を歩いていると、反対側の岸辺で三人の男たちが、地面に届くほど長い木製のホルンのような楽器を吹き始めた。三人とも、バイエルン風の民族衣装である革の半ズボンをはいている。この地方の伝統的な楽器の練習でもしているのだろうか。三人の前を通る遊覧船も、邪魔をしないように、演奏が終わるまでエンジンを切っている。三人がホルンを吹き終わると、船のデッキの観光客たちから拍手が上がり、船長がエンジンをスタートさせた。

 

アルプスの山並み、青空を水面に映すテーガン・ゼー(湖)、教会の尖塔、そしてのどかなホルンの音色。バイエルンのイメージを絵にしろと言われた時に、だれでも一番に思いつきそうな風景なので、いささか面映くなってしまうほどだ。ミュンヘンから南西に五十キロ。車でわずか一時間走るだけで、このような美しい湖水地帯が広がっている。

 

ミュンヘンに来る日本人は多いが、ロタッハ・エガンまで足を延ばす人はめったにいない。ミュンヘン周辺の他の湖に比べると若干交通の便が悪いので、観光客が比較的少ないのだ。しかもこの地域は高級保養地として知られており、物価が高い。町の中を歩けば、一泊五00ユーロのホテルやブランド商品を売るブティックが軒を連ねていることに気がつくだろう。ホテル・エガナーホーフ内の「ディヒターシュトゥーベ」のように、全国的に知られたグルメ向けレストランもあるので、週末に一泊してワインや料理を味わうという楽しみ方もある。

 

いわばバイエルンの軽井沢のような場所なのだが、軽井沢よりもさらに玄人(くろうと)というかインサイダー向きの土地である。ミュンヘンの大企業が研修場所として好んで利用するほか、バイエルンの保守政党CSU(キリスト教社会同盟)もこの近くのヴィルトバート・クロイトという町で毎年一月に戦略会議を開く。

 

社会主義時代の東ドイツで、東西間の秘密交渉の立役者として知られ、ベルリンの壁崩壊後に身の危険を感じて、西ドイツの情報機関に寝返ったシュタージ(国家保安省)の幹部も、ロタッハ・エガンに住んでいる。「知りすぎた男」はバイエルンの奥座敷に身を隠したのである。西ドイツからの金と引き換えに、東ドイツの政治犯を西側に釈放する冷戦時代の「人身売買」や、武器取引にも関わっていたこの人物は、重厚な造りのバイエルン風豪邸が立ち並ぶ一角に住んでいる。西側の情報機関に協力したために、東ドイツ崩壊の混乱を生き延びることができた、複雑な経歴を持つ人物が住んでいるところも、玄人が好むロタッハ・エガンらしい。

 

私が好きな散歩道はテーガン湖の南の端にある。鴨などの水鳥が遊ぶ湖水は美しく澄んでいて、夏にはアルプスの山並みを見ながら水泳を楽しむことができる。私は日本では湖で泳いだことが一度もなかったが、ドイツへ来てやみつきになってしまった。また人が少ない早朝に、朝日が山々をオレンジ色に染めていくのを見ながら、湖沿いの道でジョギングする気分は最高である。昼には、湖の東側の丘にあるホテル・バイエルンへ行こう。このホテルのテラス・レストランで湖を見下ろしながら食事をするのが、私にとっては夏の大きな楽しみの一つである。このホテルはある貴族が狩猟のために建てた屋敷を改造したものなのだが、プライベートな雰囲気が大人の旅にはふさわしい。こういう絶好のポジションを選んで別荘を作ってしまう貴族の美的感覚には、やはり脱帽せざるを得ない。

 

ミュンヘンに来たら、ノイシュヴァンシュタイン城のような観光名所を訪れるだけではなく、ロタッハ・エガンのような町に一週間でも滞在すれば、心の洗濯になることは間違いない。その際にぜひ旅行カバンの中に入れて持ってくるべき物は、名所旧跡を一つでも多く見ようという、性急な野心ではなく、自然を愛でる、もしくは日頃忙しくてなかなか読めない本をじっくりと楽しむような心のゆとりである。ホテルで朝食をとって「今日は何もすることがない」とあせるのでは失格。何もすることがないことを、むしろ幸運に感じるようでなければ、ヨーロッパでの休暇を満喫することはできない。心のギヤチェンジをして減速すれば、日本での日常生活とは違った速度で時間が流れて行くのを、肌で感じることができるだろう。